ソウル 雲峴宮
서울 운현궁
📍 ソウル特別市チョンノ区サミルデロ464
序章
雲峴宮(ウンヒョングン)は史跡に指定されている文化遺産です。雲峴宮は高宗の父親である興宣大院君(フンソンテウォングン)の一家が居住し生活を営んでいた場所で、政(まつりごと)を行っていた景福宮(キョンボックン)とは性格が異なります。雲峴宮は朝鮮時代末期における歴史的事件の多くの起点となった場所であり、数多くの改革や鎖国政策が練られた場所でもあったため、その歴史的象徴性は特筆すべき点があるといえるでしょう。
雲峴宮は興宣大院君の私邸で、朝鮮王朝第26代の王・高宗(コジョン)が王に即位する前までここで暮らしていました。哲宗(チョルチョン)が後継者がいないままこの世を去ると、当時の王室で最高の権力を持つ大王大妃・趙氏が興宣君・李昰應(イ・ハウン)の次男・李命福(後の高宗)を後継ぎとして王位を継承させました。これにより、父親の興宣君は興宣大院君、その母親である夫人閔氏は府大夫人とする爵号を与える国王の命・教旨が下り、興宣君の私邸は雲峴宮と呼ばれるようになりました。雲峴宮の新増築工事は、高宗即位およそ1か月後の大王大妃の指示により始まり、9か月の期間を経て老安堂(ノアンダン)と老楽堂(ノラクタン)が竣工しました。
元々、興宣君の私邸であった当時、雲峴宮は昌徳宮(チャンドックン)と景福宮(キョンボックン)の間にありました。現在の雲峴宮と徳成(トクソン)女子大鐘路キャンパスの場所に該当します。
しかし、増築により規模がもっとも大きかった時期は、周りを取り囲む塀の全長が数里(韓国の1里は約400メートル)にも及び、雲峴宮の4つの大門は雄壮であたかも宮廷のような厳粛さがあったといわれています。現在の徳成女子大鐘路キャンパス、旧TBC(東洋放送・1980年の言論統廃合によりKBSに吸収合併された民放)第3スタジオ跡、在韓日本国大使館公報文化院、校洞(キョドン)小学校、三煥企業の建物がある一帯であったと伝えられています。
雲峴宮を代表する建物には1864年9月に竣工した老安堂と老楽堂、そして6年後に増築された二老堂(イロダン)があり、現在はひとつしかありませんがその当時は4つの大門が雲峴宮にありました。老楽堂は雲峴宮の中心となる建物で、親族の60歳の祝いの宴・還甲(ファンガプ)や様々な祝いの宴などに利用されました。老安堂は大院君が居間や客人などを迎えるために使う建物・舎廊(サラン)チェとして使われていた建物です。大院君が壬午軍乱の際、清に拉致され、その後、国に戻って幽閉されたかように隠遁生活を送ったのがこの建物で、晩年臨終となった場所も老安堂の広間の後ろにあった部屋でした。老安堂は典型的な韓国式の瓦屋根の建物で、軒の先が繊細で美しいのが特徴です。二老堂は老楽堂の前にある母屋で、構造は建物の真ん中の庭を囲むように建てられた「口」の字型をしており、男子禁制となっている建物でした。老楽堂と並び、雲峴宮の絶対的権威を象徴するのは四大門です。雲峴宮が栄華を誇っている時代には正門、後門(裏門)、敬謹門(キョングンムン)、恭勤門(コングンムン)の4つの門があり、敬謹門は雲峴宮を出入りする高宗専用の門として使われた門で、昌徳宮(チャンドックン)と雲峴宮の間にありました。恭勤門は大院君専用の門として使われた門ですが、敬謹門とともになくなり、現在は在韓日本国大使館公報文化院の横に敬謹門の基礎部分のみが残っています。
雲峴宮の規模や構造がこのように雄壮かつ華麗なものであったのは大院君が権力の座にいた時期のみでした。大院君が1882年清により拉致され、およそ3年間あまり、雲峴宮の財政は大変貧窮していたといいます。その後、雲峴宮の威容も衰退し、大院君が他界してからはその維持管理が大変厳しくなりました。大院君の長男・李載冕(イ・ジェミン)が管理していた当時、高宗が内帑金(ないどきん)270万両と米370石を下賜し、雲峴宮を修理し返済が滞っていた借金を返済したという記録も残っており、当時の苦しい経済状況を垣間見ることができます。その後、日帝は1912年に土地調査を実施し、大韓帝国の皇室財産を没収・国有化し、李王職長官に雲峴宮の管理を担当させました。1948年、米軍政庁の公文により雲峴宮の所有権が再び大院君の子孫に移されました。1991年、大院君の子孫・李清(イ・チョン)氏がソウル特別市に譲渡の意思を明らかにしたことにより、ソウル特別市でこの土地を買い上げました。1993年11月からは雲峴宮の補修及び復元工事が始まり、現在の姿となりました。
雲峴宮は興宣大院君の私邸で、朝鮮王朝第26代の王・高宗(コジョン)が王に即位する前までここで暮らしていました。哲宗(チョルチョン)が後継者がいないままこの世を去ると、当時の王室で最高の権力を持つ大王大妃・趙氏が興宣君・李昰應(イ・ハウン)の次男・李命福(後の高宗)を後継ぎとして王位を継承させました。これにより、父親の興宣君は興宣大院君、その母親である夫人閔氏は府大夫人とする爵号を与える国王の命・教旨が下り、興宣君の私邸は雲峴宮と呼ばれるようになりました。雲峴宮の新増築工事は、高宗即位およそ1か月後の大王大妃の指示により始まり、9か月の期間を経て老安堂(ノアンダン)と老楽堂(ノラクタン)が竣工しました。
元々、興宣君の私邸であった当時、雲峴宮は昌徳宮(チャンドックン)と景福宮(キョンボックン)の間にありました。現在の雲峴宮と徳成(トクソン)女子大鐘路キャンパスの場所に該当します。
しかし、増築により規模がもっとも大きかった時期は、周りを取り囲む塀の全長が数里(韓国の1里は約400メートル)にも及び、雲峴宮の4つの大門は雄壮であたかも宮廷のような厳粛さがあったといわれています。現在の徳成女子大鐘路キャンパス、旧TBC(東洋放送・1980年の言論統廃合によりKBSに吸収合併された民放)第3スタジオ跡、在韓日本国大使館公報文化院、校洞(キョドン)小学校、三煥企業の建物がある一帯であったと伝えられています。
雲峴宮を代表する建物には1864年9月に竣工した老安堂と老楽堂、そして6年後に増築された二老堂(イロダン)があり、現在はひとつしかありませんがその当時は4つの大門が雲峴宮にありました。老楽堂は雲峴宮の中心となる建物で、親族の60歳の祝いの宴・還甲(ファンガプ)や様々な祝いの宴などに利用されました。老安堂は大院君が居間や客人などを迎えるために使う建物・舎廊(サラン)チェとして使われていた建物です。大院君が壬午軍乱の際、清に拉致され、その後、国に戻って幽閉されたかように隠遁生活を送ったのがこの建物で、晩年臨終となった場所も老安堂の広間の後ろにあった部屋でした。老安堂は典型的な韓国式の瓦屋根の建物で、軒の先が繊細で美しいのが特徴です。二老堂は老楽堂の前にある母屋で、構造は建物の真ん中の庭を囲むように建てられた「口」の字型をしており、男子禁制となっている建物でした。老楽堂と並び、雲峴宮の絶対的権威を象徴するのは四大門です。雲峴宮が栄華を誇っている時代には正門、後門(裏門)、敬謹門(キョングンムン)、恭勤門(コングンムン)の4つの門があり、敬謹門は雲峴宮を出入りする高宗専用の門として使われた門で、昌徳宮(チャンドックン)と雲峴宮の間にありました。恭勤門は大院君専用の門として使われた門ですが、敬謹門とともになくなり、現在は在韓日本国大使館公報文化院の横に敬謹門の基礎部分のみが残っています。
雲峴宮の規模や構造がこのように雄壮かつ華麗なものであったのは大院君が権力の座にいた時期のみでした。大院君が1882年清により拉致され、およそ3年間あまり、雲峴宮の財政は大変貧窮していたといいます。その後、雲峴宮の威容も衰退し、大院君が他界してからはその維持管理が大変厳しくなりました。大院君の長男・李載冕(イ・ジェミン)が管理していた当時、高宗が内帑金(ないどきん)270万両と米370石を下賜し、雲峴宮を修理し返済が滞っていた借金を返済したという記録も残っており、当時の苦しい経済状況を垣間見ることができます。その後、日帝は1912年に土地調査を実施し、大韓帝国の皇室財産を没収・国有化し、李王職長官に雲峴宮の管理を担当させました。1948年、米軍政庁の公文により雲峴宮の所有権が再び大院君の子孫に移されました。1991年、大院君の子孫・李清(イ・チョン)氏がソウル特別市に譲渡の意思を明らかにしたことにより、ソウル特別市でこの土地を買い上げました。1993年11月からは雲峴宮の補修及び復元工事が始まり、現在の姿となりました。
ホームページ
🗺 場所
ソウル特別市チョンノ区サミルデロ464
✏ 詳細情報
Admission Fees
無料
🔎 情報
お問い合わせ・案内
+82-2-766-9090
休みの日
月曜日(但し月曜日が祝日の場合は開場)
利用時間
夏季(4月~10月)9:00~19:00(最終入場18:30)
冬季(11月~3月)9:00~18:00(最終入場17:30)
冬季(11月~3月)9:00~18:00(最終入場17:30)